切なく長い日々が始まった。
アンジェリークは、ほんの小さな記事であっても、アリオスのことは見逃さなかった。
兄が集めていた、アリオスに関するスクラップも総て読み漁っては、やるせない溜め息をつく始末だ。
アンジェリークは、チェロの練習と称して、今日も楽譜の上にアリオスのスクラップを並べて、読みながらチェロを弾く。
兄のアリオススクラップはかなりの量で、読みきるのに、かなりの時間がかかっている。
「なんやアンジェ、帰っとったんかいな」
事務所に戻ってきたチャーリーは、チェロの音を聴く事で、妹がいることを確認する。
「えー、これは誰の曲や?」
「ハイドンの88番」
アンジェリークは、そらでチェロを弾きながら、じっとアリオスの記事に神経を集中させる。
次にスクラップをめくったときに、彼女はその記事に、ある意味心を奪われた。
『ヴェネチアの富豪令嬢、アリオスに恋焦がれて自殺未遂----』
アンジェリークは、その記事を身を乗り出し、貪るように読む。
もちろん、チェロには意識がなくなり、同じ場所ばかりを弾き、だんだんと調子の悪い音のなってゆく。
コレには、事務所で仕事をしているチャーリーはたまらず、アンジェリークに文句を云いに彼女の部屋へと向かった。
「こら、アンジェ、変な音出さんといてくれや」
「お、お兄ちゃん!」
アンジェリークはびっくりしてしまい、思わず立ち上がり、楽譜台の前に立つ。兄の事件簿から拝借している事件簿を隠すために。
「ハイドンはんも88番目で曲のネタが尽きたんかいな」
チャーリーは、眉間に皺を寄せて、困ったように溜め息を吐いた。
「ごめんなさい・・」
アンジェリークは、うなだれるように体を小さくし、上目使いに兄に許しを請う。
「----まあ、ええわ。それより、早く仕度しーや。ランディとオペラ観にいくんやろ?」
「いけない! 有難うお兄ちゃん云ってくれて」
アンジェリークは、とっさに腕時計を確認し、苦笑いをする。今の彼女は、動きたくても、動けなかった。
それどころか、兄の事件簿のせいで、いつばれないかと冷や汗が出る始末だ。
「----そうや、ランディはええやつやさかい、大事にしーや」
「お兄ちゃん?」
アンジェリークは、訝しげにチャーリーを見る。
「旧貴族の家柄は、フランス革命以前にさかのぼれるし、犯罪者もおらん家系やしな」
「調べたの?」
「ああ」
チャーリーは、アンジェリークに、兄として、優しく温かな笑顔を浮かべた。
「もし俺が、宝石商やったら、おまえを宝石で飾ったる。だけど、俺は、探偵やから、調べてやることしかできへんから」
アンジェリークは、この兄の温かい心がいつも大好きだった。彼女の顔に穏やかな微笑むと、兄に抱きついた。
「有難う、お兄ちゃん」
「ほら、早よおめかしし」
「うん。有難う、お兄ちゃん」
チャーリーは、静かに部屋から出ると、閉じられたドアを一瞥する。
アンジェ、おまえが深刻な恋愛してないか、お兄ちゃんは心配や・・・。
-----------------------------------------------------------------
アンジェリークは、勉強になるからとランディと一緒に、オペラ座に「トリスタンとイゾルテ」を観にきていた、
二人ともまだ学生のため、三階席の後ろの席だった。
ランディは、オペラを観れることはもちろんだが、何よりもアンジェリークと一緒だということが嬉しかった。
彼ははしゃいで、オペラグラスを取り出して、開演前のオペラ座の様子を眺めていた。
「いつかこんなところで演奏できたら良いね」
「そうね」
アンジェリークは愛想笑いをしながら、ぼんやりとオケボックスを見ていた。
「・・・!!!」
アンジェリークは、息を呑んだ。
丁度最前列のVIP席に銀の髪の男と、妖艶な女のカップルが目に入る。
銀色の襟足までの柔らかい髪。長身。ひょっとして・・・。
「ランディ、貸して!!」
アンジェリークは、半ば奪うようにしてランディのオペラグラスを借りると、銀色の男を見た。
「やっぱり・・・」
切れ長の形のよい左右の色の違う瞳、筋の通った鼻、官能的な唇、シャープな顔のライン。
アリオスだった。
長身にタキシードを纏う姿は一分の隙もなく、くらくらするほど魅力的だ。
アンジェリークは、今にも彼の傍へと飛んでいきたかった。
傍に行って、彼のいない間の出来事を全部聞かせたかった。
しかし、そうすれば彼がひいてしまうこともなんとなく判っていた。
アリオスが、席につくとすぐに会場は暗転し、オペラが始まった。
1幕の間、アンジェリークとランディはオペラグラスを取り合う格好となった。
ランディは、指揮者の手の動きを見るために、アンジェリークは、もちろんアリオスを見るためである。
アンジェリークは、舞台そっちのけでアリオスを観察していたし、ランディは指揮者気分で、音楽に合わせて指揮をしている。
傍から観れば、随分と奇妙な二人だった。
アンジェリークは、アリオスが女といちゃつくのではないかと気が気でなかったが、その想いよりも、再び彼がここにやってきたことへの喜びのほうが、大きかった。
「あ・・・、どうしよう、アンジェリーク」
ランディのすこし情けない声で、アンジェリークの注目がようやく彼へと向く。
「幕間に縫って貰わないとね・・・」
ランディは、陶酔して指揮をする余り、タキシードの袖を破いてしまっていた。
「幕間に行ってくるよ」
幕間----そう思うと、アンジェリークの胸は昂まり、胸が苦しくなる。
あの男性(ひと)に近づくことが出来るのは、このときだけだから・・・。
幕間になるやいなや、ランディはタキシードを縫い合わせてもらうために慌てて係りに行き、アンジェリークもアリオスを探すためにロビーへと出た。
「あっ・・・」
アンジェリークがアリオスを見つけたとき、丁度彼は、つれの女性と談笑しているところだった。
彼女は、すこし離れた場所かアリオスの様子を覗う。
やがて、女性が彼の元を離れ、チャンスとばかりにアンジェリークはアリオスに近づいていった。
姿勢を正し、なるべく優雅に。
「こんばんは」
彼女は無垢な微笑をアリオスに向けながら、さりげなく近づいてゆく。
「あ、おまえは・・・」
アンジェリークは、昂まる心を抑えながら、艶やかにアリオスに微笑む。
無垢な姿の艶やかな微笑みに、アリオスは一瞬はっとする。
「”アドルフ”だろ?」
忘れてはいなかったのだと、そう思うだけでアンジェリークは泣き出したくなった。しかし、すんでのところで堪える。
「元気だったか?」
アリオスは、フッと甘く微笑むと、アンジェリークに優しい視線を送る。
「元気だったわ。あなたは逢い変わらずお盛んのようね、アリオス」
「そうでもねーよ。おまえはどうなんだ?」
アリオスは、からかうような視線をアンジェリークに向け、挑むように云う。
「私は・・・」
そういいかけて口篭もる。本当は、”あなただけ”だといいたかった。しかし、それを言えば彼は離れていくのに決まっている。それだけは、絶対に避けたかった。
アンジェリークは、精一杯の虚勢を張ることに決めた。
「・・・私も忙しかったわ・・・。あなたと同じ理由かしら」
「え・・・?」
アリオスは、一瞬耳を疑った。こんな清純そうに見える娘なのに。
「今日も、ボーイフレンドと来てるの。どうしてもって、せがまれて」
アンジェリークは、精一杯背伸びをする。確かにランディはボーイフレンドだし、誘ってくれたのも彼だから。
「----じゃあ、俺たちは同じ主義の人間というわけだな」
アリオスは、アンジェリークの後ろの壁に手を持っていくと、彼女にぎりぎりまで近づいて、甘く囁く。
体から溢れる甘美な疼きに、アンジェリークはくらくらして、倒れそうになる。
しかしここでクラリとくれば、負けだと思い、じっと耐えぬく。
「明日リッツのスィート14にこねえか」
「明日?」
本当は飛び上がるほどこの誘いが嬉しかった。しかし、わざと訊き返して見る。
「----昼の3時ぐらいがよかったんだっけな」
覚えていてくれた。たったそれだけで、アンジェリークの心臓は止まりそうになる。
「・・・そ、そうよ。予定があるし・・・、それに一緒に暮らしている人がうるさいし」
「同棲までしてるのか?」
アンジェリークは首を縦に振る。兄と暮らしているのも、まあ、”同棲”には違いない。
「・・・クッ、若いのに発展家だな。好きだぜ? そうゆうのもな」
アリオスは、喉を鳴らしながら楽しげに笑う。その姿が、とんでもなく素敵なようにアンジェリークには映る。
「あ、悪リィ、連れがきた。じゃあ、明日な! 待ってるぜ!」
「アリ・・・」
アンジェリークが答えるまもなく、アリオスは連れの女の元へと急いだ。
「ま、いいか・・・」
アンジェリークは、最近では、最も幸せな笑顔を浮かべた。
----------------------------------------------------------------------------------
2幕目の間も、アンジェリークは地に足がついていなかった。
そのままふわふわとした気分で、帰宅をしたときには、さすがの兄もあきれていた。
しかし、久しぶりの妹の楽しげな態度に、彼も嬉しくなる。
「えらいごきげんさんやな?」
「そう?」
アンジェリークは、アリオスとの思い出の曲である”魅惑のワルツ”を口ずさみながら、ステップを踏んでいる。
「なんや、その曲どっかで聴いたことあんなー。今日は何を観てきたんやー?」
「”トリスタンとイゾルテ”!」
「盗作しよるんかな?」
チャーリーは、頭をかしげながら、仕事を続ける。
「お兄ちゃん、コーヒーどうぞ」
上機嫌のアンジェリークは、兄にコーヒーを淹れて事務所にもってきた。
「おおきに。じゃあ汚れるからこれ片すわ」
そう云って、兄が手にしたのは、最高級の白テンのコートだった。
「どうしたの、これ?」
「依頼人さんからの預かりもんや。嫁はんの結婚記念日に買うたけど、なんや、喧嘩しはって、手直しして愛人の秘書にやるらしいわ」
「ふーん」
興味なさそうに返事はしたが、−アンジェリークの瞳は白テンにくぎ付けになっている。
「イタズラしたらあかんでー。めっさ高いもんやからな」
「はーい」
素直に返事をしたものの、アンジェリークは、この白テンを使った作戦を思いついていた。
もちろん、アリオス攻略のために・・・。
![]()
コメント
「LOVE IN THE AFTERNOON 4」です。更新予告通りにお届けできて一安心。
今回もすこし長くなりましたが、アリオスが登場してからはノリノリで創作しました。
次回は、あのアリオスが翻弄される小悪魔アンジェリークをお届けします。
